雑多

色々書く

愛というものはそもそも、誰にでもあるものだろうか。ふと考えたその疑問はこの暇な講義を退屈させない為に考えついたどうでもいい自分への提議だった。そんな漠然として薄っぺらい内容しか思いつかないのは致し方ないとして、私はシャープペンをくるくると回しながら「愛」というものを熟考した。小さい頃、両親から名一杯注がれていた筈の「愛」に応えられたかと言えばこの状況で解は出ないし、案の定初恋は叶うこともなく、自分を好きになってくれた人を好きになることはこの20年間一度もない。ただ自分の注いだ「愛」を同じように返してくれると気づいたその時だけ高揚して、しかしそれは一気に冷めていった。これは果たして、「愛」を持っていると言っていいのだろうか。他の人の「愛」とは、どうだろうか。不倫、浮気なんて井戸端会議の話の種になるのが関の山、そんな歪な「愛」が私の考える「愛」とは同列になどしたくはない。そこまで考えてこの「愛」は一括りになんてできないということに気づく。慈しむ心、大事なものとして慕う心、それが「愛」というならば、私が応えられるものなんて、人間に向けて得られる感情ではない。「好き」だなんてよく言えたものだ。嘘でも好きなんて言えたらそれは、どう作用して心に響くのだろう。安心感を得たいのなら、言葉にするだけでどうにでもなるのなら、それは「愛」という言葉で綺麗に片付けていいものなのか。道徳の答えに同じものがないように、これは人によって千差万別、それこそ全人類全員が違う答えを持っているに違いない。「愛」を定義するには些か理解に苦しむことばかりではないか。しかしそう考えると私の考える「愛」とは別の解釈の「愛」は存在するはずだ。ただそれは、異性に感じるもの、同性、友愛、家族愛、動物愛、など多岐に渡るものだろうけれど、それすらも持たない人ももしかしたらいるのではないか。いないとは断言はできない。大凡想像できるのは自分が今まで「愛」を貰ったことがないか、それとも自覚がないのか、それともそれが「愛」とわかっていて拒否をしているのか。自分なんかに必要がないと言い切って生きている人もいるのではないか。それはどの「愛」にも属さず、それを客観的に見ては切り捨てることができる。無条件で見返りがないもの、と言い切ればわかりやすいが、そうとはいかない。これが「愛」とは誰にもわからない。自分にしかわからない。寂しいものだ。「愛」というものは。