雑多

色々書く

死ぬにはまだ早い

寿命を売った。その時間が誰のものになるのかなんて全く興味がなかった。生きていたくはなかったが死ぬ勇気もなく、老衰で死ぬまで待つほどの余裕も持ち合わせてはいなかった俺が出来ることは、残りの寿命をお金に変えることだけだった。

世の中は上手くできているらしく、こちらが余生を緩やかに楽しむ為の金銭と引き換えに、生にしがみ付いてる彼、彼女らに寿命を受け渡し延命ができる。それが可能らしい。

街角で死んだ目で歩いてた俺に声を掛けてきたおじさんはきっと神様だったのだろう。神様なんて信じてはいないがもうなんだってよかった。ファンタジーだろうが幻だろうが俺はそれに縋り付く他なかったのだ。

22歳の俺の寿命は残り約50年。その9割を差し出した。

大学卒業間近の冬、俺はとっくに決まっていた企業の内定を蹴り、人生に希望を見出せないまま四年間過ごしたアパートを引き払った。

親には何も言わなかった。何も言えなかった。ここではない、実家でもないどこかへ生きたかった。スーツケースと、数年間は働かずに過ごせる大金の入った通帳を握りしめ、俺はこの街を出た。

電車に適当に乗り込み、乗り継ぎ、乗り継ぎを繰り返し当て所なく走った。眠ったり起きたりを繰り返しているうちに、寿命を売った日のことを思い出した。

 

 

おじさんは、真っ黒のスーツを着て煙草を吸っていた。見た目はどこにでもいそうなサラリーマンのようで、しかし愛想笑いの一つもできなさそうな強面だった。俺はどこかの会社帰りだろうと思って素通りしようとしたが、お兄さん、と声を掛けられて思わず振り返ってしまった。

俺はというとコンビニのバイト帰りで、この寒さの中すぐにでも家に帰って風呂に入りたかったのだが、その声に何故だか体が引き寄せられたのだ。

今大丈夫かと聞かれ、はいと頷いていた自分に驚いた。しかし妙な宗教の勧誘でもカツアゲでもないことは何となく穏やかな声色から察していて。煙草を一本渡されて有り難く頂戴してしまったので話を聞くことに決めたのだ。

「怪しさ全開なのにどうして止まってくれたんだ」

ライターの火を付けながらおじさんは言った。

わかっているのならばもう少しどうにかできなかったのだろうか。俺は煙草にその火を付け、さあ、と曖昧な言葉で返した。俺自身もよくわからなかったのだ。

「──ところで芹沢伊月くん」

短くなった煙草を携帯灰皿の中に入れ、おじさんは俺の顔を見つめた。

俺の名前を知っているようだ。

もしかして。もしかして俺は今から殺されるのか。この人は殺し屋かなにかで、俺は誰かの怨みによってこの世から消されるのか。まあそれはそれで本望だが。でもこんな殺す前に話しかけてくる殺し屋なんているんだな。

などと妄想に妄想を膨らませた俺の意識はおじさんのおい、という声で元に戻された。

携帯灰皿を差し出され、気づけば指ギリギリになっていた煙草を無言で入れる。存外マナーはしっかり守るおじさんだった。

一体これから何をされるのだろうか。寒空の下、大学生とおじさんという構図はどこか可笑しかった。

俺のことを知っているこの人に得体の知れない恐怖と、少しの興奮が混ざる。

「……俺の名前を何で知ってるのかなんてこの際どうでもいいんですけど、俺は今から殺されるんですか」

「芹沢く〜ん中々いい勘してんじゃねえの」

愉しげに笑うおじさんは胸元からまた煙草を取り出した。

どうやら俺は殺されるらしい。

人生でこんな経験ができる人なんてそうそういないだろう。……その人生もここまでだが。

本気にするまいと思いつつも、本当だったら?と少し期待をしてしまってる自分がいて、これから殺されるかもしれないというのにどこか冷静だった。

この時、友達もいないに等しければ恋人なんていない俺に失うものはなにもなかった。

ただ何もかもが嫌だった。これからの社会人生活も、真っ当に生きなければいけない数十年間も、親の期待も、何の為かもわからない労働も、周りに溶け込む為の普通も、全てを投げ出したかった。

22年間、十分生きただろう。

何の恨みを持たれたのか、路地裏でおじさんに殺される運命らしい。それを受け入れるには、今のこの状況では万全過ぎた。

「因みに俺はどう殺されるんですか」

痛くはしないでほしい、と付け加えると、おじさんは一瞬吹き出したかと思ったら腹を抱えて笑いだした。

中々ツボに入ってしまったらしく、暫く笑っていた。俺はそれを冷めた目で見守っていた。

一頻り笑ったあと、おじさんは笑い過ぎて目に溜まった涙を拭い、何本目かの煙草に火をつけた。

「あんたほんとさ……まぁ聞いてた通りの人物で何より。別に俺はあんたを殺すことを肯定したわけじゃねえよ。殺すといえば語弊がある……ま、あんたの望みだったらそれも叶えられなくはないけどな」

「どういうことですか」

「それもまさか真に受けるとはな…ほんと、面白いなあんた。俺はな、…寿命を買うんだよ。言うならば仲介人だ。生きたくとも病気で余命幾許もない奴やら死にかけのジジイが惨めったらしく生にしがみつくわけだ。それをお前みたいな──健康体、極め付けに死にたい奴から金と引き換えに寿命を買う。同意の上で、だ。……それで芹沢くん、あんたが、選ばれた」

おじさんはゆらりと腕を持ち上げ俺の心臓を指した。その自嘲気味の顔を見て、おじさんも俺と同族なのだろうか、などと考えてしまう。

そしてどうやら殺人予告は俺の勘違いで、それも真実は俺の予想を遥かに上回った妄想だった。

そんな事、この世の中でできることが可能なのだろうか。まだ殺し殺された方が世の中の摂理に合っていると思うが。

だがこれも何かの縁なのかもしれない、と俺の今までにないポジティブさと好奇心が勝ってしまった。まだたくさん聞きたいことがある。こんなところもあれだし、とおじさんは近くのファミレスへと俺を誘った。俺の気持ちを読んだかのようだった。

 

知らないまま大人になっていた。成人式も、酒も煙草も、選挙権も、何だったら許されて、大人になったら許されないことばかり増えた気がするのに。

まだ生きたいと喚く老人は子供を轢き殺した。年金も税金も上がっていくばかりなのに、俺たちの未来に何の約束もないまま。

 

ファミレスに入って、おじさんはこんな夜更けなのにハンバーグを注文して俺はポテトを頼んだ。

ドリンクバーのコーヒーを啜りながら、おじさんを見つめた。

煙草を吸いながらスマホを弄っている。俺のことをその寿命売買をする会社か何かに報告してるのだろうか。よくわからない。

さて、とおじさんは灰皿に煙草を押し付け開口一番、

「あんたはさあ、死にたいんだろ?」

と、ど直球に言うものだから。思ったよりデリカシーもクソもない質問に面を食らったがその通りなので否定もしない。

その希死念慮が無ければ成り立たない商売なのはよく理解したつもりだ。

「もう俺の情報はそっちには筒抜けなんだろう。何を今更……」

「確認だよ。一応な。俺もこんな売人みたいな事をしてるが無理やりってわけじゃない。偶に上の方も漏れがあるしな。心変わりする奴もいるんだよ中には」

信じない奴が大半だ、詐欺グループと間違われてもおかしくないしとまた笑う。おじさんはよく笑った。人相の悪さはくしゃりと笑う顔で薄れていた。たぶん、優しいひとなのだきっと。

どうしてこんな仕事に就いたのだろうと少し興味がわく。久しぶりの高揚感は企業の内定が出た時より嬉しいものだった。俺の希望はここにあるのかもしれない、などと普段は思わないこと考えてしまう。

「それで成り立つと、たとえば数年のうちに死ぬとして、どう死んでいくんですか」

「眠ったように」

「それって…でも、事故か何かで死ぬかもしれない、天災とか、その内に病気になるかも分からないじゃないですか」

「寿命はな、わかるんだよ。可視化される。そうでもしないとやれない商売だろう。お前は死なない。だから選ばれた。残念ながらな。確か50年以上は生きるぞあんた」

「嘘だろ…………」

死にたがってる奴ほど長く生きるとはよく言ったもので。思い通りにはいかないのが世の常なのだ。自殺でもしない限り、俺はこのクソッタレで理不尽に塗れた世界でこれから半世紀も生きなければいけないらしい。地獄だ。それならば。俺には初めから選択肢などなかったらしい。絶望している俺の顔を見ながらおじさんはハンバーグを頬張っている。人の気も知らないで。

「あんたも食べろよ」

呑気にそう言うおじさんはすでに食べ終わっていて、メニュー表を広げていた。

俺は目の前のポテトよりこのSF映画のような、ファンタジー小説を見ているかのような感覚に襲われて、これは夢なのかと頰を引っ叩きたくなっているところだというのに。

俺の生きていた二十数年間の間に寿命が可視化され、おまけにそのやり取りまで可能になるなんて。本当はもっと前から行っていたのかもしれないけれど。なんていうか需要と供給の最たるものなのかもしれないな。

でもこれが現実ならば、安楽死が法律として禁止されている日本で緩やかに死ねることができる、俺にうってつけの案件なわけで、五十何年もこれから生きていくのだから選ばれたわけだし。

どこから俺の情報を入手しているのだろうか。この一億人の人口の中から俺が選ばれたのも奇跡みたいなことだ。疑ってるわけではないが、確信を得たいところだった。そんな事を思案しているとおじさんが脇に抱えていた鞄の中からタブレットを取り出した。

「芹沢伊月。10月26日生まれ。22歳。175センチ。64キロ。某私立大学四年。某企業の企画部に来年の春就職。両親は健在。弟がいる。友達は二、三人。恋人なし。一人暮らし。コンビニのアルバイト店員。過去に死にかけたことがあるな。その傷が額にある。体は丈夫。風邪もひかない」

人の考えを読める能力でもあるのだろうか…俺の個人情報はこのファミレスという場で漏洩されまくっている。しかも当たってる。

おじさんは俺のポテトを勝手に取りながら、尚も続けた。

希死念慮は中学の頃から。自殺しようとした経験なし。精神疾患もなし。表情筋が死んでる。不眠症気味……適当に抜粋したがまぁなんとも普通の成人男性を絵に描いたような奴だな」

「本人目の前にしてそれ言います…?」

「普通が嫌だったか?これから普通じゃなくなるんだ、そうあるべきだったものを、その人の人生そのものを捻じ曲げる。…俺はそれを説明してあんたが了承して承諾を得る。それだけの話だけどな」

気づいたら呼び出し音を押していたおじさんは、店員にオムライスとピザを頼んでいた。

頼むかと言われたが俺は首を横に振った。もう冷め切っていたコーヒーを飲み干して、溜息を吐く。

現実味が湧かないが、ここまで自分のことを知られていたら信じるしかないのかもしれない。

元より今日殺されても良かった身だ。どうせなら誰かの為に使ってもらった方がいい。

数分、おじさんが全ての料理を食べ終わる前に俺は結論を出した。

「…売ってもいいですよ、俺の寿命」

「お……そうか。まだ考える時間はあるが──、その必要はなさそうか?まぁでも今日は話に来ただけだし書類も持ってきていない。また空いてる日があれば教えてほしい」

そう言って渡されたのは名刺だった。帳正隆。とばり まさたかと読むらしい。おじさん──もとい、帳さんはそれ偽名だよ。なんて言ってまたくしゃりと笑った。 

 

 

その数日後に同じファミレスに集合して、帳さんと再会した。相変わらず真っ黒なスーツだった。喪服を表してるのだろうか。

「芹沢くん、本当にいいんだな」

「はい、よろしくお願いします」

帳さんは机に書類を置いて説明しつつ、俺は判子を押したり署名を書いたりなどして手続きに移った。

この事は友人にも親にも誰にも言わなかった。というか言っても信じてもらえないだろう。この数日で大学を中退し、内定を蹴り、アルバイトを辞め、人としてやるべき事を片付けた。

後はお金を受け取り、晴れて自由の身だ。縛りはあるが。

俺が差し渡す寿命は9割。1割を余生として自堕落に生きようと決めた。お金を貰うのだからすぐに死んでしまっては意味がない。

それでもすぐに死んでそのお金を身内に残す人達もいるらしいが、そこまで善人にはならなかった。俺は俺の為に、自分の命も自分の金も自分自信で使うことを選んだ。

「──で、振り込みするから通帳の数字も書いてくれ」

「あの、帳さん」

「ん?」

「その、流石にもう信じているんですけど、死ぬ予兆とかってあるんですか。急に前触れなく死ぬんですか」

俺の余命は約5年。5年きっかりに死ぬことはないのだろう、次の日に死んでる、みたいな事があるのかもしれない。流石に場所を選びたいものだ。

「そうだな、眠るように、と言った通り、余命が近づくにつれて眠る時間が長くなる。眠りも深くなる。気づいたら眠ったまま息を引き取るんだ」

「そうなんですか。なんていうか、有り難いです」

なんとも優しい世界で生きている気がする。この会社の名前、検索をかけても絶対出てこないようになっているし、名刺は関係者以外はただの紙くずに見えるらしいからとんでもない会社なのだ。もう十分にお察しなのだが。因みに社名は、ハッピーライフ。絶対正式じゃない。

俺は残り数枚の書類に慣れた手つきでサインをしていく。帳さんはあまり喋らなかった。

「死ぬのは怖くないのか」

しかしその沈黙を打ち消すように帳さんは真面目な声色でそう聞いてきた。

煙草を咥えて、紫煙を吐き出す帳さんのその顔にいつもの笑みは消えていた。

「そういえば帳さんってなんでこの会社に入ったんですか?」

質問を質問で返す俺に一瞬怪訝そうな顔をしたが、帳さんは灰を落としながらゆっくりと、迷うように口を開いた。 

遠くの、誰かを見るような目で。

「…20年前、俺の恋人が死んだ。癌で。男だ。元気だったんだ、風邪かと思って病院に行ったらステージ4の末期だった。諦める他なかった。その当時はこの会社はできていなかったんだ。死にたいやつらは沢山いるし、死にたくねえやつは抗うこともできないまま死んでいくのに。その時は開発途中で──その段階で会社に拾ってもらった。俺はあの頃何も出来なかったこの思いを昇華させたいんだ。死にたいなんて滅多な事言うんじゃねえとは思うが。死にたいならしょうがねえし生きたい奴が生きれて、それが上手く成り立つならってな。金の制度だって無くしてもいい気がするが…それはまあ需要と供給のバランスだな」

「……そうだったんですか」

「なんだかな、話しちまった。…俺も相当拗らせてるんでな」

とても重い話を聞いてしまった気がする。その後はまたすぐにいつもの帳さんに戻ったようだ。

思ったより帳さんの入社理由が深刻で、しかもそこにまともな信念があったことに驚く。わりとそんなことはどうでも良さそうだったのに。あの真面目な質問の意図はこういうことだったのかもしれない。

20年は相当長かっただろう。忘れもしなかっただろう。男同士だなんてさらに理解されない空気の中、最愛の人を失くした喪失感なんて誰にも、俺にもわからない。

「死ぬのは怖いですよ」

先の、帳さんの質問をようやく返した俺の答えに、帳さんも意外だという風に口を動かした。

きっと帳さんの恋人も怖くて怖くてたまらなかっただろう。死にたくないと思ったにちがいない。そこに大切な人がいてくれたという事実に、少しは安心できたのだろうけれど。

俺は死ぬのが怖いが死にたい。生きられる体を持ってしても、生きる事をやめたいのだ。それは生きることが難しい彼、彼女らの冒涜になるのだろうか。

「たぶん、怖くない人なんていないです。自分が想像できませんから」

いつだって死ぬのは怖い。だから自殺未遂もリストカットオーバードーズもしたことがない。苦しむのも痛いのも嫌いだった。

死んだ後、何も残らなくなる。死後なんてものは信じていない俺には、それが底なし沼のように怖かったのだ。

だがそれも余命があれば受け入れられるのだろうか、考える暇もない死だったら、怖いという感情も必要ないのに、そう何度も思った。何度も想像した。不意にトラックは突っ込んでこないし運良く地震が起きて即死することもなければ突然殺し屋に殺されることもない。老衰だなんて我慢もできない、突然癌で一ヶ月で死にますなんて言われもしない。

受動的な死なんて、いつまで経ってもやってこないことは、この10年間のうちに痛いほどわかってきたのだ。

怖い、が。受け入れることができれば。死にたくないと思えるかもしれない時に死ねたら、俺はそれでいい。それがいい。死にたいのに死ねない苦痛はもう十分に味わったから。

本当は、そう思うことすらも虚しかったけれど。

「でも俺は、死にます」

そう言って、最後の書面に判子を押した。帳さんはそうか、と言って受け取った。

交渉が成立したらしい。

どうやって寿命を抜き取るのか、という説明は最初に受けた。ただ薬を飲む、それだけだった。死ぬ時間に合わせて体内に入った薬が俺を殺してくれる、らしい。

最後にその薬を渡され、俺は水の入ったグラスを掴み飲み干した。

それを見届けた帳さんが手を差し出した。俺はそれを掴み、握手をする。

「入金は三日後だ。決断してくれてあちらさんも喜んでるだろう。そしておめでとう。良い余生を」

おめでとう、だなんて言い得て妙だ。

だが全て俺の望んだ道で、俺がようやっと選べた未来だった。

 

 

後日、確かに入金されていた大金を見つめ、俺は本当に寿命を売ったのだと確信してこの住み慣れた部屋を解約した。

帳さんにまた何かあったら連絡してくれと別れ際激しめに背中を叩かれたのを思い出す。

俺は新しい出会いに期待して、長いようで短いだろう5年間をどう過ごそうかと思考を巡らせたのだった。

 

 

 

乗り継いだ先は海だった。この真冬に海とは。

ダウンを着ても寒さは身に染みる。

鼻を啜りながらスーツケースを片手に浜辺に近づいてみる。周りは誰もいないようだ。もういっそのこと、と思い邪魔だったスーツケースを置き砂浜を歩く。日が沈みそうな水平線で海面が赤く揺らいでいる。

綺麗だと思わず口に出していた。俺の街にはなかった、砂浜と海を見たのは小学生ぶりくらいだろうか。

海の近くで家を借りるのも悪くないかもしれないと考えながら、近くにあった流木に腰掛け沈む夕日を眺めていた。

携帯が震える。もうほとんど行く必要のなかった大学を急に辞めた俺に何があったのかと心配したのだろうか、数少ない友達の一人である佐伯からの電話だった。気まぐれに出てみると、大きな声が耳元で響いた。思わず耳から携帯を遠ざける。

「伊月!大学辞めたって本当か?内定も蹴ったって…しかもアパートも解約してやがるし寒い中ピンポン連打しちまったじゃねえかよ全然ライン返信してこねえしさお前の家まで押しかけたら大家のおばさんに引っ越したって言われて引っ越したって……引っ越したのお前?!実家帰ったんかよそれならそうと言えていうかなんで何も言わないんだよあと少しで卒業だったろ何で辞めたんだよ何で仕事駄目にしたんだよもうとりあえず何でもいいから言い訳言えよ聞いてやる」

そう、ノンブレスで言う佐伯は相変わらずだった。俺は苦笑し、なんて言おうかなんて考えてもいなかったので黙ってしまう。

正直なところ言っても問題はなかった。もう契約してしまった事だし、止められたところで俺は死ぬ運命なのだから。

だがこの秘密は一人で守ろうと思ってしまった。一人でひっそり死んでやると、誰とも共有なんてしないと。

「自分探しの旅しようと思ってさ。まぁまたいつか、帰るよ」

「お前、それだけで通ると思って──」

「ごめんな」

そう遮って、俺は電話を切った。

佐伯はいい奴だった。同じ学科で初めて仲良くなった。けどやっぱりさ、どうにもならないことってあるから。根底に根付いちまったものは、どんな出会いを繰り返しても抜けるものではない。救われはしない。

ポケットから煙草を取り出す。風が強くなってきた。もう完全に日が沈み、辺りは真っ暗だった。白い煙が揺れた。冬の海はただ寒いだけだった。

ここには俺しかいないことをいいことに、昔ハマったインディーズのバンドの歌詞を口遊む。いっそのこと携帯なんて捨ててちまおうか。ただ失踪して届けを出されたら困る。まぁ俺の両親に限ってそんなことをすることは万に一つもないが。

ザザ、と波の音が案外穏やかに聞こえる。死、という底知れない恐怖は海にも似た印象を持っている、とふと思った。

彼方に行けば、死。俺が自殺なんてしないだろ、と見越したあの会社は何も間違ってない。

死ぬことを想像して、どうにも叫びだしたくなる。この海はなんでも受け入れてくれるだろう。

ここに来て何時間経っただろうか。もう煙草も残り数本になってきた。寒さも限界だ、今日の宿でも探そうかと腰を上げようとした、その時だった。

数十メートル先に人が見えた。カーキのモッズコートに身を包んで、髪の毛は眩しいくらいの金髪で。顔は遠くてよくわからなかったが、若い男のようだった。

こんな真冬の海に一体なんの用事で。俺じゃあるまいし、と上げ掛けた腰をまた下ろして暫く様子を見ていた。

彼は砂浜でコートのポケットに手を突っ込みながら携帯を弄っていたかと思ったら、その携帯を砂浜に投げ捨てた。そしてその足は勢いよく海の方へ向かっていった。

俺のことは見えてなかったのだろうか。靴のまま、波打ち際へ、そのまま一直線に、何の躊躇もなく海の中へ入っていった。

呆気にとられた俺は一瞬思考が停止してしまった。海を淀みなく進む彼の足はすでに膝付近までの深さになっている。

「入水自殺……?うそ、だろ」

身体が勝手に動いていた。咥えてた煙草は落ちていて、気づいたら走っていた。

こんな死にたがって寿命を差し出すまでした男が何をしているのか、まさか自殺しようとしている若者を助けようとしているのだ。おかしいだろう、俺もそう思う。

死ぬなら死ねばいいし、その覚悟があったのなら俺はそれを止める権利はない。

だが人間とは不思議なもので、やはり目の前で死なれるのは目覚めが悪いというべきか、なんていうかもう理屈じゃ説明ができなかった。

それと、携帯を砂浜に捨てた、ということは本気じゃないのかもしれないと察してしまったのだ。俺の悪い癖だ。でもその勘はよく当たるのだ。

スニーカーを脱ぐ暇もなく、彼の後を追う。浅瀬に入ったところで、彼はもう腰の辺りまで進んでいた。

「おい、おい!お前!死ぬぞ!」

なんて言えばいいのだろう、無我夢中で水の中を走った。案の定海水は冷たくて、身体は重かったが形振り構わず叫ぶことしかできなかった。

男は一瞬びくりと反応したが、完全に無視だった。死ぬぞ、なんてどの口が言ってんだか。

無我夢中で足を動かしてどうにか残り数歩まで差を詰めた。もう胸のところまで海水が浸っていた。寒さで最早感覚がない。

「お前!耳、聞こえてんだ……ろ」

「……ッ、うるさいな、もう、邪魔すんじゃねえ」

腕を掴むと、男が振り向いた。その顔は涙に濡れていて、そして、とても綺麗だったのだ。

俺は言葉を詰まらせ、その顔に見惚れていた。

今夜は満月だった。月が男を照らす、不謹慎にも綺麗だ、と口走っていた。

それが、この男、天崎葵との出会いだった。

 

 

波に濡れたのか涙の水なのか、それでも真っ赤な目は泣いた痕だろう。殴られたのだろうか、口の端が切れて血が滲んでいる。

それもこれも、綺麗な顔には全てが映えていて。だからこそ美しいのだろうかと、この冬空の海の中で差し伸べた手は間違ってはいなかったと──

「は?」

「え?」

その雰囲気に飲まれそうになった俺を一瞬で現実に戻したのは彼だ。

俺の綺麗だ、と呟いた言葉にこめかみをぴくりと動かし、その顔におおよそ似つかわしくないドスが効いた声でそう言ったかと思ったら彼の右手が俺の左頬にフルスイングしてきた。

「……ッ!?」

海の中で避け切れるはずも無く、俺は彼の拳一発でノックアウトしたのだ。恥ずかしい話。

あ、やべ、という彼の声が聞こえる。俺の意識はそのまま遠のいた。

 

独り善がりなエゴが人を救ったことが今まであっただろうか。俺はまた、何かを間違えたのか。それでもあの時君を救おうとした善意だけは、寧ろ俺を救ってくれたのだ。

誰も、一人では生きていけるはずはないのに、全てを間違えた後に残ったのは君だけだった。

 

頰に当たった冷たい何かに反応して目が覚めた。見覚えの無い天井が映る。

綺麗な顔が俺を覗き込んだ。彼の髪から滴り落ちる水滴が頰に落ちる。海へと沈んだ俺の体は案の定死ぬはずもなく、どうやら彼に助けられたらしい。助けようとしたはずが彼の手によって沈められ、そして助けられるという謎の展開を繰り広げていたのを覚えている。

思ったより本気のグーで殴られたらしい、左頬が未だに痛い。冷たいものは彼が当てている保冷剤だった。

「あ、りがとう。…ここは?」

「……ラブホ」

身体を起こして彼から氷を受け取る。ずぶ濡れだった服は全て剥がされていた。彼もバスローブに着替えていて、海で倒れた俺を律儀にもホテルまで運んで介抱してくれたのだ。死のうとしてたのに。

素っ気なくベッドの端に座って煙草を吸う姿は、暗いところで見た印象より若かった。まだ高校生くらいだろうか。

金髪で目を惹く容姿をしている、きっとモテるだろうに。彼は一体何があって海で自殺を図ろうとしていたのだろう。

携帯を弄る画面から目を離さず、風呂、入ればという彼の言葉に大人しく頷いた。さすがに真冬の海に浸かって身体を拭いて布団にくるまっただけでは温まらない。

まだお互い名前すら名乗っていないが、とりあえず風呂場へと向かった。

「イってえな……」

若干腫れている。俺より年下の未成年に殴られることなんて未だ嘗てあっただろうか。そもそも殴られたことなんてない、空気を読んでうまく察して、拗れる関係なんて面倒くさくて自分の感情は一切吐露しないよう気をつけて、俺はそういう人間だった。

それを、俺が初めて綺麗だと、心から思った彼に全てぶち壊されてしまった。そしてそれは彼の地雷だった。

──でも良かったな、死なずにすんで。

自分のことは棚に上げ、胸をなで下ろす。あそこまで自分に行動力はあるとは思えなかったが、怪我の功名と言うべきだろうか。

シャワーのコルクを捻る。俺が高校生の時なんて何を考えていたのだろう、当たり前のように死にたいという感情は無くならず、しかし死ぬことはない身体に嫌気がさして。彼も同じだったのか、俺と。彼はそれでも死のうとしてたのだ、やはり止めるべきではなかったか?と頭がぐるぐるとして思考がまとまらない。

すでに浴槽に張ってあったお湯に浸かる。

もう日付は変わってるだろう時間帯だ、彼は帰らなくても良いのか。それとも、帰る場所がない、とか。

それもこれも全部聞こうと、俺は湯船から勢いよく立ち上がった。

 

ベッドルームに戻ると彼はベッドに横たわり携帯で動画を見ていて、俺に気づくと携帯を切ってベッドの上に座りなおした。会話をする気はあるらしい。

近くにあった冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出し一口つける。

彼は枕元に置いてあった煙草に火をつけた。俺の煙草はたぶん、ポケットに入れたままだったから水に濡れて駄目になっているだろう。正直めちゃくちゃ吸いたい。その様子を悟ったのか、彼は箱をこちらに差し出して、ん、と一言。実は優しいのかもしれない。

ライターで火をつけて煙を吐き出し、何から話しをしようと考えあぐねていると、彼から話を振ってくれた。

「あんた、ここら辺の人じゃないよな」

「ああ…うんまぁ、ここは今日来たばかりで、……宿決めようと思ってたら君が海入ってくからさ、思わず引き留めてた」

「お節介…………」

「まぁでもさ、ほんとは死のうとか思ってなかっただろ」

「……」

無言、は肯定と取る。

はぁ、と溜息と一緒に紫煙を吐いて天井を見上げた彼の目がキラキラしていて、どうにも見惚れてしまう。

というか冷静に考えると俺は何男相手に綺麗だなんて思ってしまったんだ、俺はゲイなんかじゃないし至ってノーマルだ。

煙草を灰皿に押し付け、備え付けのソファに腰掛ける。

「俺の名前は芹沢伊月、22歳。君は、」

「天崎、葵……じゅうなな……」

「やっぱ高校生じゃねえか……何であんなことしたんだよ。ていうかウチ、帰らなくていいのか」

どうにも無気力そうに答える彼は、面倒臭そうに頭をかきながら俺を見やった。

見れば見るほど、その容姿は人間離れしてるように見える。

「お兄さんはさあ、死にたいって思ったことないの」

そう、その質問に、俺は一瞬なんとも言い難い感情に陥った。

俺は彼みたいに自殺を図れなかった。死にたいと思っていた、それは俺の希望だったのに。どうしても怖かった、彼が羨ましかった。自分が恥ずかしくなった。

死ぬのが怖くない人間なんているはずがないと思っていた、彼は本気じゃないにしても躊躇いもなく海へとその恐怖をも背負って進んだという事実に、俺はただ羨ましかったのだ。

何もない田舎の海に、圧倒的な死への入り口に、俺の焦がれたものに。

そしてそれと同時にムカついたのだ、きっと。俺が成し得なかったものを、俺より若い彼が目の前で起こす自殺行為に、それなのに携帯は彼方に持って行かなかったことの甘えに。

……きっと彼は、俺の存在に気づいていたのだと思う。

「思ってるよ、俺はずっと、」

「え、」

「いつからかなんてもう覚えていない──…俺は、あと五年で死ぬんだ。君は、死ぬな。死なないでくれ。…頼む」

なんとまぁ、独り善がりもいいとこだ。結局自分のことしか考えていない。彼を助けたのも、なんであんなことをしたのか、という馬鹿げた質問も。彼のその価値観を信じたくないだけのくせに。

俺はいつだってそうだ。偽善も優しさも、真面目さも誠実さも、楽に生きる為に身につけた術だ。他人の為なんざ考えたこともない、そんなのに意味なんて最初からなかった。

「ふうん…、ま、いいけどさ。俺はさあもう全部どうでもよくなっちゃって、なんつーか、なんだろう、生きてる事に意味ってあんの?って、お兄さんもそうでしょ、たぶん。俺と同じ年の頃からそうだったよねきっと。誰も、理解してくれなくていいし理解されたくもないし、なのに死にきれないし、お兄さんみたいなのに助けられちゃってさ、まぁ俺も本気だったわけじゃないんだよさっき言った通り。怖くはないけど、でも死ぬときくらいは自分で選びたい、お兄さんが羨ましい」

「羨ましい、って、」

「じゃあお兄さんが殺してよ、俺のこと、あと五年で死ぬならさ、罪に問われないじゃん。自殺するのが駄目なら殺してくれよ、その罪悪感ごと一緒に持ってってよ、アンタは死ぬ、俺も死ぬ、怖くないよ、なにも」

つい口を滑らせた、五年で死ぬという秘密を彼はやはり興味なさそうに相槌を打ったかと思えば、そんな提案をしてきた。さっきまでの口数の少なさは何だったのか、急に饒舌になったかと思えば突拍子のない事を言いだしてきやがって。こちとら泣きそうだのに。

俺を殺してよ、って、自分で死ねる勇気もない俺にそんな事平然と頼む奴いるか?しかも自殺から助けたばかりか君は死ぬなってさっき言ったよな?俺は確かにそう言ったはず…他殺ならオッケーって一体どういう解釈をしたんだ……

「は……?」

俺の間が抜けた返事に、彼はやはり綺麗な顔でニヤリと笑ったのだ。

もしかして俺は、やばい男に捕まってしまったのかもしれない。

 

ルームサービスで適当にご飯を頼んだ。ついでに湿布も持ってきてもらい、頰に貼り付ける。

そんなこんなで俺はこの怒涛の展開に頭がついて行かず、とりあえずもう一本煙草を頂戴したところだ。

彼はベッドの上でカルボナーラを食べながら、目の前にあるテレビで映画を見ている。

頰に手を添えながら、そう言えば、と聞きたかったことを質問した。

「ていうかなんで綺麗って言ったら殴ったんだよ、地雷か?」

「ムカついた」

「何にだよ……」

「俺ゲイなんだけどさっきまでおっさんに抱かれてて、まあそれはいいんだけど、どうも気持ち悪くてねっちょりしててそのキモい声と図体で綺麗だよ……ってこれまたねっちょり言ってくるから鳥肌止つし何を勘違いしてんのか付き合ってとか言われるしで思わず殴っちゃってさあ、そんで蹴り飛ばしてホテル出て家帰ったら虫の居所が悪かった親父に何故か殴られて、なんかもう涙出てきて海行って死んでやるって思ってたのにお兄さんが助けてくるしあのおっさんと同じこといいやがるからムカついた」

「俺も君にムカついてるとこだよ」 

とんでもない理不尽だった。

ていうかゲイかよ。しかも抱かれてたってなんだ、援助交際か。そういう事か。最近の男子高校生は片田舎でそういうこともやってしまうんだなと驚く。金が必要なのかもしれないな。

ゲイと言われて帳さんを思い出した。きっと事の顛末を話したら爆笑するに違いない。

コンビニボックスから缶ビールを取り出す。ここにきてから踏んだり蹴ったりだったので酔いたくなった俺は何も悪くないはずだ。

ぐいっと勢いよく飲む。左頬がやはり染みた。彼は食べ終わったかと思ったらまた煙草に火をつけた。その横顔を見つめながらまた綺麗だなと口に出してしまいそうで、ビールと一緒に飲み干す。

彼が綺麗に見えるのも、その雰囲気が、空気が、散りばめられた全てが彼を形成しているものに、俺は魅入られてるのかもしれない。

「…親と仲、悪いのか」

「あー……うんまあ、家に親父しかいなくて、ろくでなし野郎だよ。俺がこんな田舎で体売ってるから体裁が悪いじゃねえの、ザマァみろって感じだけど」

「でも殴られてさ、容赦ねえな。もっとそういうの、上手く隠してれば殴られることもないんじゃないか」

そう、俺が今までして来たように、本心も本音も、隠していれば、相手を不快にさせないように、上手に生きれるように、そうすれば諍いは起きない、誰も、傷つかない、俺も、傷つかずに済む。それが俺の普通だった。極当たり前で、自然なことだった。

そう言うと、彼はどこか悲しげな顔で俺を見つめた。

「俺は抱かれるのが好きだしそれが苦じゃない、それで金を貰うのも恥ずかしくはないよ。俺はそれで生きていくしどうしようもない親父の元で生きていくつもりはない、何を言われても殴られてもさ、俺の生き方は他人に否定されても、俺は否定したくない」

彼の綺麗さは、顔だけじゃなくて、その考え方の強さにも起因しているのではないか、と。俺の生き方は真っ向から否定された気分になった。

何もかも俺とは真逆の考えを持つ彼に、どうしようもなく惹かれてる俺がいるのは事実で。腹がたっても、俺はその美しさに、羨望し、憧れているのだと思う。

彼は、誰も信じずに生きて来たのではないか、俺はそれを、見つけてしまったのか。

「君は、」

「葵でいいよ、天崎でも、どっちでも」

「じゃあ俺もお兄さんじゃなくて、いいから。…天崎くんは、……」

「?、何」

「…………いや、なんでもない」

急に押し黙り言葉を濁した俺を、訝しげな顔で見つめる彼に缶ビールを投げる。

本当に、なんでもないよと言うと、あ、そと言って缶のプルタブを引いた。

俺は何を言おうとしたのか、きっと言ってはいけないことだ。また誤魔化して、大事なことを飲み込む。だけれどそれが必要な時もあるのだ、と自分を言い聞かせた。

彼はビールをゴクリと飲みながら、テレビを消した。

既に赤くなってる頰を見ると、酒に弱いのかもしれない。というか未成年なのに煙草吸ってるのもスルーするばかりか酒まで渡しているのはまずい気がする。言ったところで、は?と一蹴されてしまうのはわかっているので黙っておくが。

若干酔っている様子の彼がソファに座ってる俺を手招きするのでベッドに腰掛ける。

「ん…眠い」

「あぁ、寝るか」

酔うと眠くなる体質なのだろうか、くあ、と欠伸をする彼の頭に思わず手を置いてしまう。退けられるかと思ったが、もう限界らしい彼は大人しく掛け布団をめくり、入れと促した。

ベッドはラブホなのでもちろん一個しかない。ゲイだろうがきっと彼は俺なんかに欲情なんてしないだろうし、そこで俺が過剰に反応したところで失礼だろう。

弟と寝る感覚で一緒に布団に入る。ベッド上にあるパネルの電気を消すと、彼はまた口を開いた。存外よく喋る子だった。

「…そういえば何でこんな田舎に来ちゃったの、芹沢さん」

「適当に乗り継いてたら終点がたまたまここでさ……もうここに住もうかと思ってたところだけど君がいるから迷い始めた」

「ウケる、だいじょーぶだよもうあんな意味わからない事言わないしさ、俺も多分、余所者のアンタにだからこんなこと言ってるわけで…うん、でも思ったより何でも言いすぎたかも、ごめん」

「……わからなくもないから気にすんな、俺も本当は死ぬことなんて誰にも言う気なんてなかったし、そんなこと言える相手なんて早々見つからないもんな」

まさか謝られるとは思わなかった。冗談なのか本気なのかもわからない言葉はきっと彼の本心だったに違いないが、もうここだけの話という事にしたのだろう。

誰とも共有するまいと思って出て来たのに、まさかこんな衝撃的な出会いをするとは思わなかった。

彼の体温が近くに感じる。誰かと寝たのなんて久しぶりだ。

暗闇、天井を見上げる。俺は多分、ここで過ごすのだろう。そんな気がする。

彼を救いたいという気持ちか、或いは彼の強さを壊してやりたいのか、俺も相当おかしい自信はある。

「あ、そういえば俺を運んできたのって──」

そう言いながら首を傾けると彼はもう寝息を立てて眠っていた。

俺は相変わらず眠れるわけもなく、金髪のやわっこい髪を撫でて布団を出た。

彼の煙草を勝手に貰って火をつける。寝顔もやはり綺麗だった。

小さい頃から綺麗なものに目がなかった。が、それも希死念慮なんかに当たられ、全てが霞んで見えていた。何もかも、起きていることが全て、楽しいのか、美味しいのか、嬉しいのか、わからなくて。

寿命を売って、満たされたのだろうか、俺は。今日見た夕日も、月の光に照らされた彼の涙も、美しい顔も、その内なる強さも。

その全部に圧倒され、綺麗だと、俺はようやっとそれに気づいたのか。

彼が起きたらこの街を案内してもらわないとな、と考える。高校生なのだから、きっと学校に通っているのだろう。想像もつかないな。友達とかいるのか?人のこと言えないけど。

ふ、と笑って最後の一本に火をつける。

すると、彼から嗚咽が漏れたような音がした。泣いているのだろうか。煙草の火を消し、ベッドへ戻ると彼の目から涙が一筋流れた。

「天崎、」

「ッ…………う、っ」

魘されている。悪い夢でも見ているのか。頰に手を当て、涙を掬う。

いつからやっているか分からないが、金のために体を売り、家に帰れば父親に手をあげられる。母親の存在はわからないが、彼の人生は短いながらも壮絶だったのだろう。

彼を苦しめている何か、強い彼から溢れる弱さを俺は受け止めたいと、そう思ってしまっているのだから。

暫く頬を撫でていると、ぐ、と布団から彼の手が持ち上がり、俺の手を掴んだ。その手は、細くて、白くて、どうにも遣る瀬無かった。

「そばにい、て、おねが、」

おねがい、

寝言、だろうか。それもまたきっと、彼の奥底に眠っていた思いだろう。

俺の庇護欲が掻き立てられる、気づいたらベッドに横たわり、彼を抱き締めていた。背中をさすってやると、苦しそうにしていた彼の顔が戻り、安心したように眠りについたのだ。

こんな夜を、どれだけ一人で過ごしたのだろうか。

この、やり場のない気持ちを、どうすればいいのだろうか──

俺の胸の中で眠りにつく彼を見つめてから、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

「あの、芹沢さん、」

その声で目が覚めた。1時間くらいは眠れただろうか。

彼の声が下の方から聞こえる。え……下?

ぺろりと布団をめくると、俺の腕の中で彼が目を擦りながら俺を見上げてある。

そういえばそうだった。もう朝らしく、枕元でタイミングよくアラームが鳴り響いた。

「あっ、わり、そうだった。ごめん」

「や、俺こそなんか……俺なんかした?」

「あーーいや、なんか魘されてたから。こうしたら落ち着いてさ、」

流石にあの寝言は言わないでおこうと曖昧に誤魔化す。

体を起こして彼から離れる。彼は伸びをして携帯を取ると、シャワー浴びると言って消えていった。

わりとあっけらかんとしている。夢は忘れてしまうタイプなのだろうか。

俺は自分の携帯を取り出しまた布団にごろりと寝っ転がった。携帯を開くと、ライン通知にもう一人の友達からのメッセージが届いていた。バツを押して電源を切る。

相変わらず、家族からの連絡はない。きっと、学校を辞めたことすら気づいてないのだろう。そもそも連絡を取る行為なんて、ここ暫くは無い。

数分経つと風呂場から出てきた彼は、乾いたらしい昨日来ていた服に着替えていた。

「学校は、行かねえの」

「いや〜寒いし、サボるかな……」

「あ、そう……じゃあ暇なら街、案内してよ」

「え……っていうか昨日から言おうとしたけどアンタってわりとそういうところ何も言わないのな…楽でいいけどさ」

「そういう……?あぁ、だって言ったところで聞かないだろ君」

まぁそうだけどさあ……とブツブツ言っているが、何が気に食わないのだろうか。

俺の服も乾いたらしく、脱衣所に向かおうとすると、うわ、アンタ全部吸っちまっただろ、と煙草の空箱を投げられた。

買ってあげるからごめんて、と言うとまーたそういうところだよ……と今度は溜息を吐かれた。俺はどうすればいいんだろうか……

着替えを済ませ、荷物を整えてチェックアウトの連絡を入れる。

流石に俺が全てを出したが何故かまた彼は不服そうな顔をしていた。

海の近くのラブホだったらしい。外に出るとまた海が辺り一面に広がっていた。明るいところで見ても、その海は綺麗だった。砂浜もゴミなんて一つも落ちていない。

そういえば、と寝る前に言おうとしていた言葉を思い出す。

「ずっと言おうと思ったんだけど、俺のこと、このホテルまで連れてってくれたのって誰?さすがに君には無理だろ」

「あー…………まぁ、うん。俺じゃ、ない」

「だよな〜流石にお礼言いたいんだけど、ラブホの人とか?」

「いや…………つーかお礼なんか別にしなくても……」

言いにくそうに言葉を詰まらせる彼を見る限り、どうやら相当自分にとって都合の悪い奴に頼んだのだろう。

中々教えてくれないので諦めようとしたその時だった。前の方から、ここの地元民だろうか、学ランにネックウォーマーを身につけた男子高校生が自転車に乗って現れた。

俺たちを見つけるや否や自転車から降りて、耳に入っていたイヤホンを取った。

「葵、」

「げ、慶太……」

俺と同じくらいの背丈だろうか、ガタイが良く、スポーツバックを背負っている。

今にも逃げ出しそうな態勢で、最悪と顔に書いてある彼の表情から読み取るに、この体格のいい彼がもしかしたら昨日の…そう予想するが、案の定だった。

「九条慶太っす、昨日はこいつがなんかやらかしたらしくてすみません。殴られたところ大丈夫すか。風邪とか」

「いや、こちらこそどうもありがとう……おかげで大丈夫だったよ。重かっただろう。お礼させてよ。俺は芹沢伊月、よろしく」

やはりこの子が昨日ぶっ倒れた俺を運んでくれた人物らしい。まさかのまた年下かよ泣けるな。

確かにこの体格だったら俺一人くらいホテルまで背負っていけそうだ。面目無い。

でもこういうザ・硬派!スポーツマン!みたいなタイプが彼と仲良しなのが意外だな。

ここまで人に嫌悪を表しながらも倒れた俺を運んでもらうのを頼んだくらいには、心を開いてるに違いない。

俺の隣で九条くんを睨みつける彼に話しかける。

「仲、良いんだな。友達いないかと思った」

「アンタわりと失礼だな!?ていうか友達じゃなくてただの幼馴染だっつーの……このゴリラが俺の友達なわけない」

「いや葵も人のこと言えねえだろ、この兄ちゃんぶん殴って気絶させるレベルにはゴリラ」

なんか俺が恥ずかしくなってきたんだけど。年下に何を言われてんだ俺、死にたい。死ぬんだけど。

どうやら昨日の経緯はこうらしい。記憶がない俺に九条くんが説明してくれた。

海で殴られクリーンヒットし気絶した俺を陸まで運ぶのは、水の中では浮いて重さは関係ないので簡単だったらしい。が、そこから俺を放置するわけにもいかなかった彼は、砂浜に放置してあった携帯で唯一連絡を取っていた九条くんに不本意ながらも電話をし、来てもらったのだ。

「葵、なんかあったんか」

「……なんでもねーよ、いいから運べ」

「てめー来てやったのにあんだよその言い草はよ……つーかこの兄ちゃんなんなわけ」

「知らん」

「明日には話せよ逃げんじゃねえぞ」

「うっせえ」

……などという会話を広げていたとはつゆ知らず、九条くんは俺をラブホまで運んでくれたのだ。見ず知らずの得体の知らない男を助けてくれる時点で、相当いい奴だろう。

そしてその予告通り様子を見に彼は登校前にここまで来たというわけだ。

「怪しい奴じゃないから安心してよ。訳あって引っ越して、昨日の夜こっち来てすぐに天崎くんに出会ってまぁ、うん。詳しく話せないけど……」

「…こいつの客じゃないんすね」

「あ、あぁ。そういうわけじゃない。ていうか俺はノーマルです」

九条くんは彼のことを詳しく知っているらしい。そりゃあ幼馴染なんだから当たり前か。

客、というのはきっと彼が体を売っている相手のことだろう。

彼にも心配をかけてくれる人が一人でもいるらしくて安心した。

「まぁ、いいすわ。遅刻するし行きますね。お礼は別にいいっす。…お前学校は」

「今日は芹沢さんに街案内するから行かねえ」

「留年しても知らねえからな」

「余計なお世話ー」

そう言ってそっぽを向く彼の年相応の態度を垣間見てしまい、可愛いな、などと思ってしまった。

九条くんは溜息を吐き、じゃ、失礼しますと言って自転車に乗って元来た道を戻っていった。遠くなる前に再度お礼を言うと、ひらりと手を振っていた。

彼は、九条くんの何がそんなに嫌いなのだろうか。まぁ思春期同士、何かしら事情があるのだろうが。

舌打ちする彼を宥めて、とりあえず駅へ向かいコインロッカーにキャリーケースを預けた。

「じゃ、案内おねがいするわ」

「は〜いはい。ていうかアンタわりと遠慮ないよな」

「まぁ、君のことなんか気に入っちゃったしさ。よろしく頼むよ、これから」

「へ、あ〜〜そう…モノ好きだな…」

海のあるこの街、出会いはどうにも成功だったとは言い難いが、俺は残されたこの時間、彼を見守ろうと決めたのだった。